出来ないことと共に生きる
開設準備で連日クリニックにいて、朝から夜まで濃密です。
選択と判断、計画と確認。
ワクワクと不安が入り混じる変な感覚です。
そんな作業をしながら、患者さんやそのご家族との会話を思い出しています。
もう長く私の外来に通われているその方は、心不全を発症され一時はかなり危険な状態まで行きました。
治療にうまく反応されて退院までたどり着けました。
その後は半年近く、心臓リハビリテーションを行い元気に過ごされていました。
お孫さんもできたとのことで、お爺ちゃんて呼ばれるが楽しみだとご夫婦揃って外来でお話を楽しくされておりました。
それから数年たち徐々に奥様が心配を口にされるようになりました。
最近、その患者さんが書いた文字が読みにくくなったとのことでした。
お話しした感じでははっきりしませんでしたが、握力を測ってみると低下していました。
認知症の評価を行うと、軽度の認知症という診断です。
CTやMRIなどで評価し脳血管性ではないことを確認し認知症の専門医にご紹介し、循環器内科と2つの科に通院されるようになりました。
心臓病としてはかなり安定しているので、私の外来で行なっているのは主に心臓チェックなどの定期検査だったりお薬の微調整です。
話しかけても、以前よりは反応が鈍っていると奥様は言われていました。
安定状態の中で、お話しするのはお孫さんはお元気ですか?とか、こないだ旅行に行かれる言ってましたがどうでしたか?とかそんな他愛もないことです。
そういう時には、以前のその方らしく、嬉しそうにお話をしてくれます。
話を聞きながら、こういう記憶がその人を作っているんだろうなと漠然と考えます。
あるいは、予想しなかったようなことや新しい発見などが、素直に喜びに感じたりして、そういった気持ちや好奇心のようなものが苦難や困難な状況に立ち向かう力なんだろうなと思います。
認知症は2024年9月までの医療ではまだ治すことができません。
せいぜい症状の進行を遅くできるかどうかくらいです。
だから早く見つけて対処開始ができるかどうか、ということが大事です。
医師としては、治したい、という欲望・願望があるものの不十分で悔しく思うこともあり、診察の時に少し申し訳ない気持ちを持ちます。
でも奥様が先日言われていました。
そうやって外来に来て話をしている主人をみていると、自分は元気になるしすごく大切な時間である、というようなことでした。
なんとなくマンネリに見えるような普通の風景でも、そんな普通が大事に感じることもあるだろうなあと漠然と考えるわけです。
治せなくても、そばにいて話をするだけでも、誰かの役には立てるのかもしれません。
生きがいはなんだろう。
大切な記憶はなんだろう。
好奇心を持てているか。
想像力が発揮できているか。
周りの風景をどう見ているのか。
そういうことを気にしながら自分は診察に臨んでいる気がします。
仕事だから、でしょうか。
それもあるかもしれません。
自分の思いとしては、目の前の相手に対してしっかり向き合うというのは大事なことと思っています。