ちゃんぷる。
ソーメンチャンプルを作ります。
麺がいて、野菜がいて、肉がいて、ときにツナがいて、卵までまざる。
白くて細くて上品に食べられそうなそうめんが、炒められ、混ぜられ、押し合いへし合いしながら、ひとつの皿の上で雑多な共同体をつくっている。
行儀よく一列に並んだ料理ではありません。
むしろ、少し乱れている。
少し雑然としている。
けれど、その雑然さこそが、ソーメンチャンプルーの命です。
そもそも、「整いすぎたもの」が、いつも人の心を打つとは限りません。
きれいに区分され、整理され、説明可能で、無駄がないものは、たしかに見事です。
でも、人がほんとうに元気をもらうのは、しばしば、もっと混ざったものです。
少しはみ出し、少しぶつかり、予定調和ではないもの。ソーメンチャンプルーは、まさにそれです。
そうめん単体では出せない力を、野菜の青さが引き出し、豚肉のうまみが支え、油の香りが全体を抱きしめる。
ひとつひとつを分けたら平凡かもしれない。
だが、混ぜると急に生命力が立ち上がる。これはすごいことです。
雑多さとは、劣化ではありません。
雑多さとは、豊かさです。
異なるものが同じ場所に存在し、それぞれの持ち味を失わず、それでいて一体になっている状態です。
玉ねぎの切り方も均一でさえない。
ソーメンチャンプルーの皿の上では、主役と脇役の境界があいまいです。
そうめんだけが偉いわけでもない。
にんじんだけが彩り担当でもない。
肉だけがうまみの王様でもない。
みんなが少しずつ力を出して、全体としてうまい。
これは料理であると同時に、ひとつの思想です。
熱を入れるときには、別々です。
それぞれの野菜を焼いて、都度並べておきます。
余計な水が出ず、ビチャビチャにはなりません。
それぞれに対する火の入れ方があるのです。
世の中には、「単純であること」「洗練されていること」ばかりが高く評価される場面があります。
でも、ほんとうの現実はもっとチャンプルーです。
人の人生も、町も、家族も、仕事も、感情も、だいたいごちゃごちゃしている。
嬉しいことと不安なことが同じ日に来る。
強さと弱さが同じ人の中にある。
上品さと泥くささが同居している。
そういう混線した現実を、無理に切り分けず、そのまま「これでいい、いや、これがいい」と受け止める感覚。
ソーメンチャンプルーには、それがある。
肉が多すぎるのを見て、自分の煩悩の量を見つけています。
しかもこの料理は、雑多なくせに、ただ雑なわけではない。
そこがまた偉い。
ごちゃごちゃして見えるのに、食べると妙にまとまっている。
ばらばらに見えるのに、口に入れるとちゃんと一つの料理として成立している。
この「混沌と調和の両立」こそ、ソーメンチャンプルーの偉大さです。
乱れているようで、芯がある。
自由なのに、崩れていない。
これは簡単そうでいて、実はなかなか到達できない境地です。
私は思うのです。
ソーメンチャンプルーを前にするとき、私たちはただカロリーを摂取しているだけではない。
雑多であることを肯定する勇気を、皿の上から受け取っているのです。
きれいに整理できない日があっていい。
まとまりきらない自分がいていい。
いろんな要素が混ざって、少し騒がしくて、それでも全体としてちゃんと生きているなら、それはむしろ立派なのだと、この料理は無言で教えてくる。
ソーメンチャンプルーのごちゃごちゃは、敗北ではありません。
生活の熱です。
人間の現実です。
そして何より、うまさの源です。
だから私は、声を大にして言いたい。
ソーメンチャンプルーの雑多さは、すばらしい。
この皿の上のごちゃごちゃこそ、豊かさそのものだ。
整いすぎた世界より、少し混ざって、少し乱れて、でも力強くひとつになっている世界のほうが、ずっとおいしい。
ずっと人間的で、ずっと愛すべきものなのです。
違うもの同士が一緒になって、ひとつのおいしさになるなんて、すごいですよね。
最近、机の上が資料や論文だらけで乱れがちなのを言い訳しているだけかもしれません。
